冬の日を
モンシロチョウは、
成虫のあの姿で耐えるのですが
エサ(花蜜)も全然ないことですし、
石の裏とかどっかの隙間とかで
春の夢を見ているのでしょう

僕ももうどっからどう見たって成人なので、
冬の日は成虫越冬に準じたいものです
なにも幼虫のように頑張らなくても
いいのではないか
という気がしてなりません

春になったら
成虫越冬したモンシロチョウは、
ぼろぼろになった羽を広げて
ふらふら飛ぶんです
そして雄なんかは、セックスして死ぬんです
雌は卵を産むけど、すぐ死にます
冬に夢見る春というのは
セックスして死ぬことなのです

もしも
成虫なのに、季節の向こうまで生きるのであれば
(普通、成虫は越冬しません。秋までに託して死にます。)
せめてそういう夢を見て、
うとうと過ごそうじゃないか
というのが
虫たちの冬なのですが
僕はかなり賛成です


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コメント

“越冬” への8件のフィードバック

  1. 西の子
    西の子

    なんのコメントも残さず、綺麗な青空としてこのページを拡げたほうがいい気がしましたが、コメントしちゃいます。

    ボルカさんの詩は実用的なことばかりで、無駄がないですが、スパイスとして、邪な下心を足すのが、人によっては下品な感じもするんでしょうけど、わたしは、蛾みたいでいいなと思いました。冬はどうしても春ばかり見てしまいますね。

  2. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    西の子さん
    ありがとうございます。

    〉なんのコメントも残さず、綺麗な青空としてこのページを拡げたほうが

    いやいやいや。
    そんなの可哀想じゃないですか、作者(私)が!
    コメントを頂けて、とても嬉しいです。

    人によっては下品な感じかも知れないこと、蛾みたいで良いな、と思われたこと。
    なるほど、と思いました。

    私は女性の読み手にセクハラしようとしてこうした表現を取るわけではないのですけど、たしかに時々、叱られてしまうことがあります。

    この作品は出来立ての新作ですが、早速他の場所でも意見を伺ったところ、そちらでは、「セックスという言葉がここにあると嫌悪感を感じてしまうので、「交尾」など他の言葉にしたらどうか?」との意見を頂きました。
    作者としては、嫌悪感を齎す効果はまったく狙っておらず、ナチュラルな表現なので、それは極めて意外なご意見でして、とてもありがたいご指摘でした。
    同時に嫌われたくないのはやまやまなのですが、ここは交尾では作者的にはしっくり来ず、その説明が上手くできなくて、考え込んでたところです。何か、工夫が足りないのかも知れません。
    「蛾みたいで良い」は、まことにありがたいお言葉で、今の今まで自覚してなかったのですが、私がこの「セックス」の語のような下品な表現を選択するのは、まさに、そうありたいからなのかも。
    詩作の励みにさせて頂きます。

  3. 沙一
    沙一

    私としては、本作においては「交尾」よりも「セックス」のほうが適している語であると思いました。交尾といえば動物の、セックスといえば人間の営み、というニュアンスの違いがあります。また、「雄」「雌」も、人間ではなく動物の性別を指しています。本作の語り手はモンシロチョウに自らの生を投影しているため、「そして雄なんかは、セックスして死ぬんです」という一行に、語り手の成人とその対象であるモンシロチョウとのあいだにある種の混淆が起きており、詩が発生しているのではないでしょうか。ここで「交尾」としてしまえば、一般的な説明に過ぎなくなってしまいます。

  4. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    沙一さん

    コメントありがとうございます。
    「セックス」に清き一票、心強いです。

    実は、「【交尾】ではダメなのなら、雄・雌を【男性・女性】ではどうか?」というご意見も頂きました。
    つまり相手によっては、ご指摘の箇所が単なる下ネタと響き、おそらくはその拒否反応としてだと思うのですが、そこに仕掛けたレトリックが発動しないようなのです。

    私には予測の難しい心の動きですので、色んな方に感想を言葉で教えてもらって、また戦法を考える、という繰り返しです。

  5. 藤 一紀
    藤 一紀

    蛾兆さん、こんにちは。まずは蛾兆さんの新作が読めたことをうれしく思います。
    湿り気のない語り口が好きです。透谷の『蝶の行方』はめちゃくちゃ感傷的だし、安西冬衛の『蝶』は緊張感はあるけども、いくらか気負った感じが滲み出てる印象があります。どちらの作品もそれはそれで嫌いではないのですが、ともかく、蛾兆さんのこの作品に、そういう心情的な押しつけがましさがないように感じられるのは、語り口と最後まで「僕」視点にとどめているからだと思います。

    さて、「セックス」についてですが、
    僕はこの語に違和感を感じませんでした。まあ、割りと普通に、またストレートに口にする語であるというのもあるけど、セックスは他者とのつながりに対する欲求であって、つながりを求めるということは自分を他者に向かって投げ出すこと、かっこよく言えば自己の変容でもあります。その意味で生の根源的な衝動であると同時に死の体験でもあると言えるでしょう。

    越冬する前に死を迎える蝶(また「僕」)が、やがてくる死を前にして、その生を燃やして「何か」とつながること、さらにそのなかで自失することを夢見ることは美しいあり方のひとつだと思います。そういうわけで、文脈に照らしても下ネタのようには感じませんでした。

    というのが僕の意見ですが、とどのつまりは「セックス」という語にかなり賛成です、ということです。 

  6. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    藤さん

    ありがとうございます。
    名作2編とご比較頂き、たいへん光栄です。作者としましては、なるほどとも思えました。
    確かに蝶のくせに韃靼海峡渡るのは力強いですよね(笑)
    また、透谷の「蝶のゆくえ」は私は極めて美しい、重要な傑作と思ってはいますが、しょせん蝶なのに誘われすぎ。とでもいいますか、いくら何でももう少ししっかりしなきゃね、と思います。
    傑作2篇に、敬意こそ抱いておりましたが、上記のようなこと、想いもしないつもりだったのですけど、ご指摘を楽しく拝読しますに、確かにそれは私の志すところでございます。この詩が至れたどうかは別に、私としては蝶ごときに騒がず、冬蝶を見ても心静かに、しかし蝶に驚いて抒情するようでありたいものです。

    また、セックスに一票ありがとうございます。
    私はソノ行為を指す言葉としては、セクシャルインターコース(性交)がいちばん好きなのですが、どうもワクワク度に物足りなさがあります。例えば耳元で女性に囁かれても、あんまり嬉しいとは思えません。また人によっては、性交という言葉を上品で硬く感じるでしょうが、かえって下品に感じる方もいるようなので、あまり使い勝手が良くないのです。
    比べて、セックスって良い言葉ですよね。

  7. 西の子
    西の子

    再度コメントしてすみません。交尾かセックスかを議論するあたりが、LGBTだなあ……とびっくりしました。田舎者は雌が女性とか雄が男性とか言わないほうがいい気がしますね。でも詩人たるためには、議論をやらないといけないので、でも正論を言うための場ではない気がして。本当は、書いたままそのままがいいに決まってると思いますけどね。変にLGBTとかに配慮して、ちぐはぐな言葉で議論を呼ぶよりは、なんか言葉の綾でフェミニズムとか議論するの本当に嫌いなんです。推敲ってなんのためにするのかを穿き違えてる人がいて、そういう人が文化の覇権を握っていて、うわあ…と思います。ボルガさんもその一端を担っていたのかもしれないけど、わたしはわりかし素直な表現をやってらっしゃる方だと思います

  8. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    西の子さん、コメントありがとうございます。

    LBGTというのは、「レズビアンとかゲイを含めて、いろんな人がいるけど、そういう事で他人を差別してはいけません。」、というような関係の事だと思うのですが、そこまでは田舎でも都会でも、現代社会では、当たり前のことですよね。
    なので、この詩はもちろん無関係ですし、この詩に限らず、今や「差別してはいけない」というその点では、議論になるケースはごく少ないのでは、と思います。

    しかし、表向きそうでも、他人の性的あり方に口を出したくなる人もまだいて、実際にはなかなか社会が改まらない。なので、意識から変えていかないといけないな。と、いう話にならざるを得ず、そうなると旧来のジェンダー秩序そのものについて、どう考えるのかってことも、関連はしてくることなのでしょう。

    LGBTは僕自身の文学的課題ではないので、別の理由から、僕もジェンダー論には関心がありました。
    古いジェンダー観を、あんまり無批判に、まるっと肯定しちゃうのは、僕もためらわれます。
    なので、性的多様性の観点から、ジェンダー論を通じて、この詩を論じる人がいても、違和感はないように思ってます。そうした感覚は、個々の作品に表面化するかどうかとは別に、作者が内心持っている、単純なヒロイズムや単純な母性論への揶揄や含羞のような感性として、作者自身は自覚してます。

    で、今、僕がちょっと困ってるのは、「しかし実際にはこの詩をLGBTの観点から論じた読者は、(他の場所でも)まだ一人もいない」という事と、西の子さんも、そうした議論がしたいわけではない。むしろしたくないと仰ってるように見える、という事です。

    実験のところどうかというと、この詩をLGBTの観点から論じることもできなくはないけど、あんまり関係ないんじゃないですかね。と、私は思います。
    セックスという単語は、男女の性及び性交を指していますが、ゲイやレズビアンの性交も別に排除してない概念ですから。
    この詩では、性が身体的にも社会的にも、男女二項ではなく、複雑なグラデーションであることは表面に出してませんが、それは別に構わないんじゃないかな、と作者としては、思っています。

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