どこから話したものだろうか。
この問いに私は話すフェーズによって異なった回答をすることになる。と、なると話す順番は大切だろう。
しかし、私には効果的な語り方を思いつくことができない。
とりあえず、「詩に於ける事実」の本質的定義と、外縁を端的に説明し、それらがそうなる理由を述べれば私は満足するだろうか。いや、それがそうはならない。本質的ではない別のフェーズにおいても、「詩に於ける事実」とは何なのかを説明しないと、何かを言えた気がしないからだ。そのフェーズを仮に「一般的なフェーズ」と呼んでおこう。そこでは、私が本質的だと思うフェーズでとは、例えば外国語のように、全ての言葉の意味が異なる言語体系がある。だから、異なる定義となるのは当然なのだが、フェーズが異なるということを端的にカテゴリで指し示すことが私にはできない。また、「一般的なフェーズ」の言語体系においても、概念の本質定義と外縁規定があり、マトモにやったら、事は相当込み入っている。
ここは諦めて、デタラメに語ってみることにしようと思う。すなわち、最短距離で語ることを目指すのだが、人からはいかにも遠回りに見えるだろう。
まず語っている「私」とはこの場合、何なのかを語る必要があるかもしれない。
私とは私の精神である。
精神には感情、思考、判断の主体となる働きがあるが、一方では何らかの物質や信号やエネルギーがそれを構成し、それらの性質と初期値によって、宇宙の法則の通りに反応する。
ではそんな私にとって、言語とは何なのかというと、そこで早くも2つのフェーズがあると思う。
1つのフェーズでは、言語とは私にとって外的な、あるいは内的な情報だ。
言葉は内から聴こえるときも、外から届く時もあるが、それは精神そのものではなく、私という精神と、他の精神(または精神と比較しうる何者か)との間で交わさられる音声または光学的な通信信号である。
別のフェーズでは、言語とは精神の構成要素の1つだ。
文脈が回り道してしまうが、【人間は言語によって思考している】という、一般には受け入れられている説を私は信じない。これにはいつくか理由があるが、失語症となった身内のケアで思い知った経験が大きい。
もしも人間が言語で思考しているのならば、言語を喪失することは思考を喪失することである。人間性を喪失すると言っても同じことだ。現代医療はまさにそう考えているが、そのため全失語は、親族がそのひとの安楽死を考えるきっかけにもなりうる。そういうときは、人は深く考えざるを得ないし、経験を注意深く考察しないわけに行かない。
その経験をここに詳しくは書かないが、私が、人間は言語では思考していないと述べることは、動かしようのないタイプの経験に基づいている。全失語状態の脳は、少なくともケースによっては、間違いなく実際に思考している。
そうではあっても、私も言語が精神の構成要素の1つとなることは認める。全てではなく、1つだ。
さらに言えば、私は、あるフェーズでは、私の言葉でできている。とも言えなくもない。それはもちろん、私の精神の他の要素を度外視した場合ではあるのだが。
ここまでで私は、言語には2つフェーズがあると述べた。その1つは我々(=我々の精神)の外にあり、我々に作用する信号だ。もう一つは、我々(=我々の精神)の構成要素の1つだ。
次に事実とは何かについて、二三述べる。
最近私は色彩に関心を持っているが、色彩学には、Color Vision is a Healthy Illusion. (色彩は健康な幻影である)という名言がある。
錯覚という言葉がある。通常、錯覚とは光や図形などの外的な物理事物が、自然法則によって起こす現象ではないものを指す。例えば水酸化ナトリウムと塩酸を混ぜれば、塩化ナトリウム、すなわち食塩ができるが、錯覚はそういう種類のことではない。それは我々の精神が起こす誤作動であり、一種の錯誤だと考えられている。
また、精神病の患者には、幻聴や幻視の症状が知られているが、それも精神が事実を誤認識しているのだと解されている。実際にそれらは、精神の構成要素である化学物質の投与により、抑制することができる。事実や事物の方を変えなくても、だ。
しかし、色彩にはそうした考え方が通用しない。物理的現象としては、色彩は実在しないのである。あるのは、プリズムにより分解される連続スペクトルだけだ。色彩は精神においてしか存在しない。その意味で色彩は病気による幻覚や、精神のミスとしての錯覚と同種だ。だが、緑の森を歩く時の緑、海上でみる空と海の青、そうした個人が呑み込まれて消失するような想いを伴う、圧倒的な経験が色彩にはある。とても幻覚や錯覚と同じく私の脳が作ったイリュージョンだとは思えない。そしてそうした色彩経験を我々は好んで会話のテーマにして、感動を分かち合う。だが、色彩は実はイリュージョンなのである。
おそらく、というか確実に、色彩は分かり易い一例であるだろう。他にもそういうことは多々あり、事実と精神は、現在我々の時代の科学が考えているより、連続的なものなのだろうと思う。
さて言語にはその本質的な作用として、話題にしている【事実】というものを語る働きがある。そしてもう一つ、虚構という、「異種の事実」を語る働きもある。
「嘘」について考えてみよう。
嘘は誰かを騙せている間だけ、意味のある言表だ。騙せている間、それは非ー事実ではなく、異種の事実として、特殊な作用をしている。単純に、事実と事実でないものがあるのではない。事実ではないのだが、誰かは騙せている間だけ、嘘は、有価の論理命題でありうる。それが「単に事実ではないもの」、となった瞬間、論理命題として無価の文になる。それは何も語らない文であり、いわばたわごとだ。
小説は、別名を虚構というが、虚構にもそれに近いものがある。小説は、あたかも真実であるかのように誰かに読まれている限りにおいて、成立している。
そう考えると、言語には事実を語る働きと虚構を語る働きがある、という言い方は、実は間違えなのかもしれない。
より正確に言えば、言語には事実を語る働きと、事実を偽装する働きがあるのだろう。後者も、事実を語る働きの特殊な利用例であり、おそらく本質的には、言語には事実を語る働きしかない。
小説が虚構を語りうるのは、そのカテゴリーに作品があるからだ。それは言語の働きではない。ジャンルの働きなのだ。
ところで言語には第3(広義に考えれば第2)の働きがある。
それがほかでもなく、「詩の素材となる」という働きである。
先に見たように小説における言語も、極めて特殊なあり方をしている。だがそれは精神の外にある方の言語ではあるので、話は詩に比べれば単純だ。詩の場合は複雑なのだが、いまは構わずこのまま語る。
詩における言語は、そもそも言語の2つのフェーズのうち、どちらのことなのか曖昧である。それは外的な信号なのか、むしろ私の精神の構成要素なのか。
そして、精神と事物もそもそも連続的なものなのだ。さらに困ったことに、詩は、しばしば、精神と事物の境界付近の「できごと/事柄」を「感情」を優先して表現する。
ここまでで、私の当惑は言表できたと思う。理解されるかどうかは、甚だ心もとないが。
とにかく、そこで、先に進むために、1つの用語を提案したい。
異論もあるだろうが、私は「作品にとっての事実」というフレーズを使っている。これを薦める。
この言葉を使うと、目前に広がる文芸テキスト郡を、糖質に眺めることができる。
先日、詩と小説をめぐり、私は以下のように述べたのだった。
(自己引用)
ここで僕の個人的な考えですが、僕は詩作品にコメントする時、「それがフィクションである可能性」には言及しないことにしてます。
なぜかと申しますと、自分がやられると嫌だからです。考えてみれば、僕って、わがままな奴ですよね。
でもそうなので、この事での被害者はユーカリさんに限りません。
なぜかということを、くどいけど少し説明します。
詩の作者にとって、作中に書いた出来事はフィクションかも知れないし、事実かもしれないですよね。
でも、詩の場合、作品においては事実として書かれているケースが多く、作品にとって事実だという書き方なら、読者として僕は事実として読みます。
例えば、小説がフィクションであるというのは、小説というジャンルにおいては、虚構で作品を構成することが確立してるからだと思います。言い換えると、小説では、出来事は作品にとってフィクションなのですよね。作者にとってもフィクションであったかどうかは、読者にとっては、ワンクッションおいた遠い問になります。
推理小説では、たいてい人が殺されますが、だからと言って警察に通報したら、それはやはり読み方がおかしいです。小説なのだから、虚構であることは、前提です。
でも、詩はどうなのか。
詩でも虚構は作品の骨子にも、血肉にもなれますけど、小説と異なり、フィクションであることは自明ではないのでは、と思います。
(引用終り)
詩的レトリックの代表的なものの1つに隠喩がある。
隠喩は事実を述べたものなのか、虚構なのか。と問うことが可能だろうか?
作者にとって、どうなのかを問うことはできないと私は思う。
それは作者自身にとってすら不可能だろう。
隠喩を含む言語というものが作者の構成要素の1つでもある限り、不可能だ。言語の性質に従って書いたとしか言いようがない。
だが、作品にとって事実なのかどうかは、答えることはともかく、問うことは可能である。
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