【論考】詩に於いて事実とは何か

どこから話したものだろうか。
この問いに私は話すフェーズによって異なった回答をすることになる。と、なると話す順番は大切だろう。
しかし、私には効果的な語り方を思いつくことができない。
とりあえず、「詩に於ける事実」の本質的定義と、外縁を端的に説明し、それらがそうなる理由を述べれば私は満足するだろうか。いや、それがそうはならない。本質的ではない別のフェーズにおいても、「詩に於ける事実」とは何なのかを説明しないと、何かを言えた気がしないからだ。そのフェーズを仮に「一般的なフェーズ」と呼んでおこう。そこでは、私が本質的だと思うフェーズでとは、例えば外国語のように、全ての言葉の意味が異なる言語体系がある。だから、異なる定義となるのは当然なのだが、フェーズが異なるということを端的にカテゴリで指し示すことが私にはできない。また、「一般的なフェーズ」の言語体系においても、概念の本質定義と外縁規定があり、マトモにやったら、事は相当込み入っている。

ここは諦めて、デタラメに語ってみることにしようと思う。すなわち、最短距離で語ることを目指すのだが、人からはいかにも遠回りに見えるだろう。

まず語っている「私」とはこの場合、何なのかを語る必要があるかもしれない。
私とは私の精神である。
精神には感情、思考、判断の主体となる働きがあるが、一方では何らかの物質や信号やエネルギーがそれを構成し、それらの性質と初期値によって、宇宙の法則の通りに反応する。

ではそんな私にとって、言語とは何なのかというと、そこで早くも2つのフェーズがあると思う。
1つのフェーズでは、言語とは私にとって外的な、あるいは内的な情報だ。
言葉は内から聴こえるときも、外から届く時もあるが、それは精神そのものではなく、私という精神と、他の精神(または精神と比較しうる何者か)との間で交わさられる音声または光学的な通信信号である。
別のフェーズでは、言語とは精神の構成要素の1つだ。
文脈が回り道してしまうが、【人間は言語によって思考している】という、一般には受け入れられている説を私は信じない。これにはいつくか理由があるが、失語症となった身内のケアで思い知った経験が大きい。
もしも人間が言語で思考しているのならば、言語を喪失することは思考を喪失することである。人間性を喪失すると言っても同じことだ。現代医療はまさにそう考えているが、そのため全失語は、親族がそのひとの安楽死を考えるきっかけにもなりうる。そういうときは、人は深く考えざるを得ないし、経験を注意深く考察しないわけに行かない。
その経験をここに詳しくは書かないが、私が、人間は言語では思考していないと述べることは、動かしようのないタイプの経験に基づいている。全失語状態の脳は、少なくともケースによっては、間違いなく実際に思考している。
そうではあっても、私も言語が精神の構成要素の1つとなることは認める。全てではなく、1つだ。
さらに言えば、私は、あるフェーズでは、私の言葉でできている。とも言えなくもない。それはもちろん、私の精神の他の要素を度外視した場合ではあるのだが。

ここまでで私は、言語には2つフェーズがあると述べた。その1つは我々(=我々の精神)の外にあり、我々に作用する信号だ。もう一つは、我々(=我々の精神)の構成要素の1つだ。
次に事実とは何かについて、二三述べる。

最近私は色彩に関心を持っているが、色彩学には、Color Vision is a Healthy Illusion. (色彩は健康な幻影である)という名言がある。
錯覚という言葉がある。通常、錯覚とは光や図形などの外的な物理事物が、自然法則によって起こす現象ではないものを指す。例えば水酸化ナトリウムと塩酸を混ぜれば、塩化ナトリウム、すなわち食塩ができるが、錯覚はそういう種類のことではない。それは我々の精神が起こす誤作動であり、一種の錯誤だと考えられている。
また、精神病の患者には、幻聴や幻視の症状が知られているが、それも精神が事実を誤認識しているのだと解されている。実際にそれらは、精神の構成要素である化学物質の投与により、抑制することができる。事実や事物の方を変えなくても、だ。
しかし、色彩にはそうした考え方が通用しない。物理的現象としては、色彩は実在しないのである。あるのは、プリズムにより分解される連続スペクトルだけだ。色彩は精神においてしか存在しない。その意味で色彩は病気による幻覚や、精神のミスとしての錯覚と同種だ。だが、緑の森を歩く時の緑、海上でみる空と海の青、そうした個人が呑み込まれて消失するような想いを伴う、圧倒的な経験が色彩にはある。とても幻覚や錯覚と同じく私の脳が作ったイリュージョンだとは思えない。そしてそうした色彩経験を我々は好んで会話のテーマにして、感動を分かち合う。だが、色彩は実はイリュージョンなのである。
おそらく、というか確実に、色彩は分かり易い一例であるだろう。他にもそういうことは多々あり、事実と精神は、現在我々の時代の科学が考えているより、連続的なものなのだろうと思う。

さて言語にはその本質的な作用として、話題にしている【事実】というものを語る働きがある。そしてもう一つ、虚構という、「異種の事実」を語る働きもある。
「嘘」について考えてみよう。
嘘は誰かを騙せている間だけ、意味のある言表だ。騙せている間、それは非ー事実ではなく、異種の事実として、特殊な作用をしている。単純に、事実と事実でないものがあるのではない。事実ではないのだが、誰かは騙せている間だけ、嘘は、有価の論理命題でありうる。それが「単に事実ではないもの」、となった瞬間、論理命題として無価の文になる。それは何も語らない文であり、いわばたわごとだ。
小説は、別名を虚構というが、虚構にもそれに近いものがある。小説は、あたかも真実であるかのように誰かに読まれている限りにおいて、成立している。
そう考えると、言語には事実を語る働きと虚構を語る働きがある、という言い方は、実は間違えなのかもしれない。
より正確に言えば、言語には事実を語る働きと、事実を偽装する働きがあるのだろう。後者も、事実を語る働きの特殊な利用例であり、おそらく本質的には、言語には事実を語る働きしかない。
小説が虚構を語りうるのは、そのカテゴリーに作品があるからだ。それは言語の働きではない。ジャンルの働きなのだ。

ところで言語には第3(広義に考えれば第2)の働きがある。
それがほかでもなく、「詩の素材となる」という働きである。
先に見たように小説における言語も、極めて特殊なあり方をしている。だがそれは精神の外にある方の言語ではあるので、話は詩に比べれば単純だ。詩の場合は複雑なのだが、いまは構わずこのまま語る。

詩における言語は、そもそも言語の2つのフェーズのうち、どちらのことなのか曖昧である。それは外的な信号なのか、むしろ私の精神の構成要素なのか。
そして、精神と事物もそもそも連続的なものなのだ。さらに困ったことに、詩は、しばしば、精神と事物の境界付近の「できごと/事柄」を「感情」を優先して表現する。

ここまでで、私の当惑は言表できたと思う。理解されるかどうかは、甚だ心もとないが。
とにかく、そこで、先に進むために、1つの用語を提案したい。
異論もあるだろうが、私は「作品にとっての事実」というフレーズを使っている。これを薦める。
この言葉を使うと、目前に広がる文芸テキスト郡を、糖質に眺めることができる。

先日、詩と小説をめぐり、私は以下のように述べたのだった。

(自己引用)
ここで僕の個人的な考えですが、僕は詩作品にコメントする時、「それがフィクションである可能性」には言及しないことにしてます。
なぜかと申しますと、自分がやられると嫌だからです。考えてみれば、僕って、わがままな奴ですよね。
でもそうなので、この事での被害者はユーカリさんに限りません。

なぜかということを、くどいけど少し説明します。
詩の作者にとって、作中に書いた出来事はフィクションかも知れないし、事実かもしれないですよね。
でも、詩の場合、作品においては事実として書かれているケースが多く、作品にとって事実だという書き方なら、読者として僕は事実として読みます。

例えば、小説がフィクションであるというのは、小説というジャンルにおいては、虚構で作品を構成することが確立してるからだと思います。言い換えると、小説では、出来事は作品にとってフィクションなのですよね。作者にとってもフィクションであったかどうかは、読者にとっては、ワンクッションおいた遠い問になります。

推理小説では、たいてい人が殺されますが、だからと言って警察に通報したら、それはやはり読み方がおかしいです。小説なのだから、虚構であることは、前提です。
でも、詩はどうなのか。
詩でも虚構は作品の骨子にも、血肉にもなれますけど、小説と異なり、フィクションであることは自明ではないのでは、と思います。
(引用終り)

詩的レトリックの代表的なものの1つに隠喩がある。
隠喩は事実を述べたものなのか、虚構なのか。と問うことが可能だろうか?
作者にとって、どうなのかを問うことはできないと私は思う。
それは作者自身にとってすら不可能だろう。
隠喩を含む言語というものが作者の構成要素の1つでもある限り、不可能だ。言語の性質に従って書いたとしか言いようがない。
だが、作品にとって事実なのかどうかは、答えることはともかく、問うことは可能である。


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コメント

“【論考】詩に於いて事実とは何か” への22件のフィードバック

  1. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    ・誤字訂正。

    この言葉を使うと、目前に広がる文芸テキスト郡を、糖質に眺めることができる。

    テキスト群、等質 の間違いでした。
    失礼しました。

    ・以下は補足です。
    内的な言葉とは、この場合、「記憶されている他者の言葉」などを指します。または主観的には由来の分からないフレーズのことなどです。

  2. 花緒
    花緒

    詩であるか否かに関わらず、表現である以上、
    そこに書かれていることには何らかの真実性が伴っていて欲しいと私は感じます。
    真実性がないと感じると作品としての価値も大いに減じてしまうように私は感じます。あくまで私個人の好き嫌いとしてですが。

    そこに書かれている事実はフィクションであったとしても、
    そのなかに記されている感受性は、
    少なくとも作者が真に感じた、あるいは、
    感じたいと思ったものであって欲しいと願うところです。

    あえてフィクションを経由させて、深いところに至ろうとする、或いは、
    ドラマを作っていこうとするアプローチそのものを否定する気はありません。

    他方、作者にとってさえ真実味を伴わない放言を
    わざわざ読みたいとは思えないのです。

    あくまで好みの問題かもしれませんが、私はネット詩によくいるタイプの
    放言系の書き手を評価する気になれないのですよね。

  3. 藤 一紀
    藤 一紀

    こんばんは。この問題については、ここに端を発して、〈詩作品の作者と語り手の関係〉とか〈詩は表現ではない〉もしくは〈詩は伝達を目的とした手段ではない〉といった、かつて入沢康夫が『詩の構造についての覚書』で語ったことや、秋吉台での現代詩セミナーにおいて荒川洋治が『文学は実学である』と題した講演の中で「詩はフィクションとして読まれるべき」と発言したことにもつながる、そして、それ以前から古くから続いている問題だと個人的には思います。そして、答えるためにはいろんな要素をとりあげて考える必要があるためになかなか時間がかかることだとも実感しています。

    ただ、僕は時々思うんですが──と、『ミステリと言う勿れ』の主人公・久能整くんの口癖を借りると──疑問なのは〈フィクション〉または〈虚構〉という言葉の取り扱われかたです。
    というのは、いわゆる生活における現実やある事実がある一方で、「それは虚構だ」と言う時、そこには前者が上位で、後者は下位にカテゴライズされるニュアンスがあるように感じられるからです。
    けれども、生活における現実を成立させるために行き渡っている秩序や暗黙の了解事項とされているものなりも、もともとは「つくられたもの」です。
    その意味では、“history”という語をわざわざ“his-story”と言い換えるつもりはないけれども、制度側によって「つくられ」且つ「強固にされてきたもの」こそ虚構性は高いと言えるのではないでしょうか。
    そして「それは虚構だ」と言う時、あたかも制度側の正しさを維持するための目を逸らさせる手段として、あるいは制度側の安定を脅かす対象を排除するために虚構という濡れ衣を着せているところがありはしないのでしょうか。
    そう考える時、虚構であることは詩においては制度に対するカウンターとして、蔑ろにされるよりはむしろ受容されるべきではないかと思うんですよね。もちろん、その「虚構」が表現としてどういうフォルムをもつかがネックになるということは言うまでもないけれど。

  4. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    花緒さん

    コメントありがとうございます。
    ピカソの名言にこんなのがあるそうです。
    「芸術とは私たちに真実を悟らせてくれる嘘である
    Art is a lie that makes us realize the truth.」

    この前後は、
    「芸術が真実でないことは、誰もが知っている。芸術とは、真実を悟らせてくれる嘘である。芸術家は、嘘の中にある真実を人に納得させるだけの技量を身につけなければならない。」
    だと書いているページがありました。
    https://lostash.jp/sales/trivia/1036853

    花緒さんのコメントを拝読して、ピカソの上記を思い出しました。

    (花緒さん)
    〉そこに書かれている事実はフィクションであったとしても、
    そのなかに記されている感受性は、
    少なくとも作者が真に感じた、あるいは、
    〉感じたいと思ったものであって欲しいと願うところです。
    (引用終り)

    私も花緒さんの意見に賛成ですし、ピカソの言うようにも思います。
    そこに作者の真実が宿ってないと、読者は感動しないですよね。

    閑話休題で、ございます。

    ところで、ピカソを僕は崇拝してるのですけど、その気持ちは、絵画の技術に関する専門的なことを背景にしています。圧倒的に上手い、と感じるところが、彼の作品にはあります。
    ですが、長年崇拝し続けてきたことの理由として、やはり僕は彼の心が好きだし、作品に込められた心に感動したのですね。

    ピカソのいろんな作品に僕は深く感動してきたのですけど、「ゲルニカ」にも感動しました。
    絵画表現なので、写真とは違うけど、これはゲルニカの惨劇を事実として伝えるものだ、とも感じました。

    ですが、ウィキペディアによると、こんなことのようです。

    〉28日朝にはジョージ・スティア(英語版)による長い記事が『タイムズ』に掲載され、この記事は世界各国の新聞に転載された。ピカソはこれらの過程でゲルニカ爆撃を知り、パリ万博で展示する壁画の主題に選んだ。この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った。

    ウィキなので、怪しいとも思われますが、むしろピカソのことだからこそ、実際に新聞で読んだだけで、あの異常な大傑作を描いたのかもしれないとも思われます。
    僕には、ゲルニカに表現された、彼の心の張り裂けんばかりの悲痛は、真実だとしか思えないです。
    例え作者が、女遊びにほうける毎日のなかで、たまたま新聞記事を読んで、うっかりあのゲルニカを描いてしまったのだとしても、あの作品に真実が宿っていることは変わらないな、と思います。

  5. fio

    虚構とは事実の芳醇な影であり、詩に於いて事実とはイコール虚構だと思います。(スルー希望)

  6. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    藤原さん

    またまたー。含蓄の深いところを(^o^)

    ヒストリーとは、ヒズ/ストーリーだったのですか。
    では、イストワール・ドゥ・マドマゼル・オー(O嬢の物語)は、【彼にとっての「O嬢の物語」】ですな。
    内容はその通りなわけですけど。

    なんて、それは冗談で、明日、ちゃんとレスポンスさせていただきます。
    興味深いコメントありがとうございます。
    ちょっと考えますね。
    虚構と現実の上下や価値は、「ボヴァリー夫人は私だ」と述べた小説家の登場した、小説黎明期に差し戻されるかも知れないような、大きな課題のくせに、実は未解決なのかもしれません。
    僕は、いま、社会問題をフィクションで描きながら、真迫性のゆえにノンフィクションの賞で世に認められた石牟礼道子を思い出してますが、一緒に読みました詩作品、「産ましめん哉」も、実体験ではありませんでしたね。
    いろいろ考えます。
    再レスしますね。

  7. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    失礼。
    名前が誤字しました。

    藤さん、でした。
    ごめんなさいm(_ _;)m

  8. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    fioさん

    スルーご希望ですか。

    僕はご希望を承っても構わないのですが、蛾兆ボルカがどう思うか。彼にはもちろんレスポンスする権利はあるわけですから。
    あとで彼に訊いておきますね。

  9. fio

    ボルカさんへ

    fiorina はOK!といっております。
    ガチョウぼるかさんの采配にお任せします。

  10. fio

    失礼しました。

    蛾兆ボルカさんでした。

  11. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    藤さん

    〉「それは虚構だ」と言う時、そこには前者が上位で、後者は下位にカテゴライズされるニュアンスがあるように感じられるからです。
    〉けれども、生活における現実を成立させるために行き渡っている秩序や暗黙の了解事項とされているものなりも、もともとは「つくられたもの」です。

    この問。

    そして、権力(大きな物語)と、個人それぞれの、ささやかだけど大切な物語たちの関係ですね?

    とても良くわかります。
    哲学者のウィトゲンシュタインは、僕を色彩論の迷路にハメた主犯野郎なのですが、彼は、(視界の外と内の境界線が見えず、視界の外というのは存在しないということと同じように、人生にとって死は存在しない、)というようなことも言ってます。
    死が一人の人に訪れるときは、その人の身体は死んじゃってるから、死ってのは経験できないって言うんですね。
    それって、その通りなんですよね、と思う瞬間のフェーズに立てば、我々は事物や出来事を経験しません。我々が経験するのは、自分で作った「物語(フィクション)」だけなんですよね。もちろん、物語ってのは、事物や出来事の影響で、我々の精神に生成するのでしょうけれど。
    死は、それを語るべきときには、物語の語り手も創作者も既にいないので、書かれない。死は、人生という物語の外側だ、ということなのでしょう。

    そもそも「事実」というものと「真実」というものの間ですら、この倒立は起きてると思います。
    真実とは、誰か人間の価値観や心情により真実として選ばれた物や事を指します。
    事実とは、観測されたものの中で、主観によらず、客観的採用された物や事を指します。
    真実と事実なら、真実のほうが世界の実相に近いような気がするのですけど、事実のほうが真実より客観的で確実性が高い物/事だったりしますよね。
    今は虚構と事実の比較を考えていますが、ちょっと考えるのと逆になるんですよね。

  12. 花緒
    花緒

    皆さんのコメントがとても素晴らしく、ビーレビュープラスの良さがとてもよく出ていますね。

    私が思うのは、人間は現実に強く、想像に弱いということですね。将来、病気が重くなって苦痛に苛まれるであろうという「想像」を理由に、自殺したりすることがある、というのが人の特性なのかなと。

    虚構と事実はどちらかがどちらかの上位にあるというような単純な関係性ではなくて、ぐるぐる回ってしまうようなイメージなのかなと思ったりしています。

  13. 藤 一紀
    藤 一紀

    例えば、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』には〈旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて〉という添え書きがあります。また栗原貞子の『生ましめんかな』には〈原子爆弾秘話〉という添え書きが。
    で、日露戦争も原爆投下も歴史的事実です。旅順攻撃が第三軍によって行われたこと、第三軍第四師団第八連隊に晶子の弟がいたことも、原爆投下後、産気づいた母親から赤ん坊をとりだした産婆がいたことも事実です。その意味ではこれらの「作品」の背後には事実が横たわっていると言えます。けれども僕はこれらを「作品」として、つくられたものとして、キッパリ言うなら虚構として考えます。

    晶子は、弟の身を案じて書いたかもしれませんが、その詩作品自体は、弟に向けて「死なないでくれ」と、胸のうちを言語化して伝えているものではありません。それならば同一のリズムも連構成も必要ない。《すめらみことは、戦ひに/おほみづからは出でまさね、》などという批判めいた謂いも必要ありません。というか、そもそも伝えるのであれば『明星』に発表するのは方向がちょっと違う。作中には「をとうと」も「旅順」も登場するけれども、単に「をとうと」を心配したり天皇や戦争に対する批判を読み手に向けて伝えることを目的にしているのではなく、そういう不条理がある世の中に生きている悲しみや怒りを詩空間でうたいあげようとしてつくっているように思います。そして、そこでは、本人の自覚のあるなしにかかわらず、事実は素材として扱われているのではないかと。
    で、あまりに事実らしく、ナマであるかのように感じられたために、〈国家観念をないがしろにしたる危険思想の発現なり〉と猛烈な批判が浴びせられることになったわけですが、それは、晶子にとって事実は事実としてあるのだけど、それを素材化して歌のフォルムを与えたために、より真実味や迫真性をもつものになったことを示しているのではないでしょうか。事実をそのまま伝えようとしても、真実味も迫真性も感じないものが多数ある中で、この作品は事実以上に事実らしく感じられた。だから世の母親や厭戦家に受け入れられ、逆の立場からは批判を受けることになったのではないかと。
    要すると、あたかも晶子自身の事実であるかのような作品内の事実(虚構)が、晶子自身の事実そのままと読まれてしまい、作中主体と作者である晶子とが同一視されてしまうほど、作中主体が声・肉体をもち、読み手の中でU・エーコ流にいえば想像的作者が、経験的作者である晶子と重ねられてしまったということです。

    栗原貞子の『生ましめんかな』においては、原爆投下後の被爆者である母親が産気づき、同じく被爆者である産婆が赤ん坊を取り出します。これはモデルになった産婆がいる。つまり、事実を扱っています。で、取り出したあと、作中では産婆は亡くなるのですが、実際には産婆は亡くなっておらず、たしかインタビューなども受けている。これは蛾兆さんたちと読んだ時、否定的意見も出ました。事実としては死んでいない産婆(人)を、作中で死なせるのはどうなのかと。興味深いですね。事実として産婆さんはモデルにはなっているけど、栗原はそういう産婆がいたという事実を書いたわけではないし、原爆投下も事実とはいえ、その事実を書きたかったわけではないと僕は思います。そのような事実ひとつひとつは素材になって、怒りも悲しみもない交ぜになった祈りのようなものとして作品全体を響かせる劇的空間を構成するための要素になっている。だから事実よりもいっそう事実的であるその言語空間を作中の事実(虚構)として経験できたのですが、その分だけ事実でないことに対する受け入れがたさを感じる人もあったのでしょう。
    事実は事実としてあるけれども、それを語るだけでは、ただ聞くにとどまり何も響いてこないことがある一方で、事実から出発して、作中の事実としてより以上の事実を体験させる虚構(作品)がある。僕はそこに虚構がもつ優れた特徴を見ます。

    で、最初に書いたとおり、どちらにも添え書きがあるのですが(晶子の添え書きはものによっては若干異なっていたり、栗原のはネットでは添え書きがないものもある)、それも事実がもとになっていることを示すとともに、意識的かどうかは別にして、より事実らしさを高めるための詩的効果(詩的レトリック)として働いているように思います。

  14. fio

    その後思うことあって、皆さんのお考えを一切念頭に置かず、事実と
    虚構について自分なりの「感じ」と言うようなものを書いておきます。
    常識かもしれませんし、非常識な思いつきかもしれない、ともかく
    議論にかみ合う形になっていませんので、いつかその態勢が整うまで、
    皆さんスルーでいって下さるとありがたいです。

      ♢  ♢  ♢  ♢  ♢

    私は事実に即したとみえる作品を書くとき、できるだけ事実の記憶そ
    のままを書いています。
    例えば「黒子」と言う詩を投稿していますが、この中の父や家族の像
    はできる限り記憶のままを書いたものです。

    しかし、事実というものは、子どもの時のあの場所だけに今も存在し
    ているものであり、そこから文字に起こした時点で、内容が100%
    事実に沿ったものであっても、100%虚構だと思っています。

    事実の記憶でなくても許される虚構において、私が事実の記憶にこだ
    わるのは、子どもの時に経験している、事実が持つ緊張感、様々な条
    件に引っ張られた絡み合いの妙、次々と遭遇する小説より奇なる出来
    事に小手先のウソは及ばない、と感じるからです。

    もう一つの理由として、この世のことはゆめまぼろし、と死の間際語
    った武将の気持ちを、今実感として持っているからです。
    既にゆめまぼろしであるものを、この上さらに夢のように、幻のよう
    に書き換える必要ないな、と言う気持ちです。

    繰り返しますと、「黒子」でいうなら
    事実は過去のある地点(時点)にへばりついて今も故郷に存在し、
    私に詩や文章として書かれた事実(イコール虚構)は
    故郷を遠く離れ今現在ここにあって皆様に読んでいただいたものです。

  15. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    花緒さん
    随分と遅いレスになり、すみません。
    コメントありがとうございます。

    〉人間は現実に強く、想像に弱いということですね。

    それ、思う機会があります。
    他人が自分をどう思ってるか、なんて想像に過ぎません。なんなら、自分が誰かをどう思ってるかですら、たまたま思いついた空想かも、と思える場合もあります。
    なのに、それに自我を依拠しちゃう人もいるような気がして、もしそうなら怖いほど脆い精神だと感じます。
    誰でも事実には耐えてますよね。
    収入とか、生活とか、状況とか。
    でも想像は、確かに誰にとっても怖いものですから、そんなものに自分の大事なものを寄りかからせちゃうのは、あぶない事だと思っています。
    そんな事も、虚実の間に挟まってるんじゃないかな。

    ところが一方で、最近僕が関心を持ってるのは「アイヒマン」なんです。
    彼はやはり、想像力の貧しい、その点で凡庸な人間のように思います。

    想像にもいろんな面がありそうですね。

  16. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    藤さん

    重いよwww

    その2つ、僕が大好きな作品で、ありがたいのですが、ちょ〜っと待ってくださいよ。
    仰ることは、ほとんどわかりました。
    そこに、大事なものがあるけど、ちょっと考えますね。

  17. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    fioさん

    スルーして欲しいとの、重ねてのご要望ですが、
    お気をつかわず、なるべくお気軽に。
    拙い散文に、こめありがとうございました。

  18. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    こめ ✕
    コメント ◯

    誤字、失礼しました。

  19. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    藤さん/与謝野晶子

    引用
    〉そういう不条理がある世の中に生きている悲しみや怒りを詩空間でうたいあげようとしてつくっているように思います。そして、そこでは、本人の自覚のあるなしにかかわらず、事実は素材として扱われているのではないかと。

    とても面白いご指摘、ありがとうございます。

    僕は藤さんの考察に触発されて、与謝野晶子の特徴を2つ思い出してます。

    一つは自由思想。
    生涯盟友とした平塚らいてうと共に、「青踏」の設立に関わったほどの人ですし、恋愛の逸話は多々残されていて、晶子さんは、何かとフリーダムな方だったのだろうと僕は思います。
    そんな晶子ですから、言葉に残さなくても、戦争と全体主義は、相当、嫌いだったろうな、とも思います。
    戦争中には、この人がと思うような優しく奥深い詩人の戦争協力の事例は多々ありますが、天然でフリーダムな人ですと、それと全体主義や戦争はソリが合わせられないだろうと思います。

    もう一つは「美」への拘りです。
    晶子の作品には、切れば血が流れそうな恋愛至上主義みたいな作品の他に、オナニズムやレズを美的に描いた、いわゆる百合作品があり、僕は好きなんですけど、それらにおける女性美への拘りも、とても特徴的だと思ってます。
    フェミニズムに話が戻りますが、原始、女性は太陽であった、で始まる青踏宣言でも、美しさと正しさの一致は、彼女(たち)にとって、譲れない価値観だったのだろうと思います。
    与謝野晶子が当時の詩人たちと温泉でゆっくり遊んで、朗読会などやった時の写真があるのですが、それを見ても、他の人たちは浴衣をサラリと着こなしているところ、与謝野晶子だけは、巨大な世紀末ヨーロッパ風の帽子を被り、ものすごくキメまくってます。
    彼女なりの美、それは耽美と言いたいような少女趣味も漂わせるものですが、とにかく美ということを生き方に強く取り入れる人だったのでは、という印象を僕は持ってます。

    なので、藤さんのおっしゃるリアルと虚構のことに、「美」というものを重ね合わせて拝読してます。

    伝わるかな(^o^)
    伝われ〜、伝われ〜。

    美というのも、本当に手強い概念ですが、詩は現実を写すのではなく、美の創作の素材にする面があるように思いました。
    この言い方では誤解も招きそうですが。

    美というのは、青踏宣言が「太古」と述べるような、気の遠くなるような時間を超えて、人類が大切にしてゆくもので、それに「弟」をコミットさせる、というたくらみが、あの詩には感じられると思います。

    定型詩でいうと、防人のうた諸作品とか、杜甫の「国破れて山河在り」みたいなものに、それは通じるのでは、などと思いました。

    (うましめんかな)はまた今度

  20. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    〉作中主体が声・肉体をもち、読み手の中でU・エーコ流にいえば想像的作者が、経験的作者である晶子と重ねられてしまったということです。

    このご指摘、非常に重要で、こういう事があるために、僕はこの散文のようなことを時々考えるのかもしれないのですが、栗原貞子の話をそますね。

  21. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    「うましめんかな」について。

    最近、うちのお茶の間では、何かと「はだしのゲン」が話題になるのですが、あの漫画の原爆投下シーンは、事実と異なると指摘されてます。
    あの漫画では、原爆に落下傘が取り付けられて投下されるのですけど、エノラ・ゲイが落とした現実のファトマンには落下傘はついていなかったのだそうです。
    でも、現在までに整理された情報だと、実は原爆投下の直前に、標的標準を合わせるため、小型の落下傘つきのヤツを落としたんだそうです。
    なので被爆者には、落下傘つきの爆弾がエノラ・ゲイから落とされたのを自分の目で見た人がたくさんいたし、その直後に街は閃光と灼熱と爆風に包まれ、爆発の瞬間を下から見上げて目視した人は、ほとんど即死したわけです。
    生き延びた人は、自分が経験した原爆についていた落下傘を語り、中沢はそれを「はだしのゲン」で視覚的に描いたのですね。
    それは事実と異なる、と言われた。
    ではそれは何なのか? 
    というと、それが神話なんじゃないかな。と、思います。
    それは悲惨な物語ではあるけど、1つの民族に経験され、目撃し、誰かに伝えるまでは生きていた人が語り伝え、中沢が視覚化して遺した。

    (続く)

  22. 蛾兆ボルカ
    蛾兆ボルカ

    「うましめんかな」も、実は栗原は目撃者ではないんでしたよね。
    だから細部は空想であるとも言えるし、事実とは異なる事も書かれている。
    しかも重大なところで。

    しかし、僕は、あの読詩会からこれだけの時間が経って、今にして思うのですが、あれは虚構とも言えるけど、むしろ神話なんじゃないでしゃうか。
    栗原貞子とその時代の女たちはあれを事実として共有し、後にあの街の人たちは、生きるために必要な物語の1つとして、石碑に刻んだ。
    栗原貞子は神話のつくり手として、正しいことをしたんじゃないかと思うな。

    単に心の真実というだけでは、僕の気持ちは満足しないんですが、客観的には、心の真実というしかないものとして、神話と呼びたいものが、虚構のする仕事としてあると思います。

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